20240103

自己肯定感を危ない持ち方で持っている気がする。

何かができることは本当に自己肯定感に繋げてもいいのだろうか? できることをできなくなったとき,自分の存在意義がどんどん失われてしまうのではないかという恐怖がある。価値はあるけど意義はないのか? そもそも元から存在意義なんてなくて,自分である程度設定するべきであり,その設定が自己肯定感に繋がる? 過剰な設定とその設定での挫折を経験して,はじめて良い塩梅に設定できるようになる?
コンビニを辞めたくなっているのが,現実から逃げようとしているのか,設定を変えようとしているだけなのか,どちらなのかが分からない。休学費用,食費,通院費,趣味費などを得るには今の所アルバイトしか選択がなくて,そのバイトで精神的に参るのは本末転倒である。しかし,精神的に参る理由が,自分が自分に甘いからなのか,外部の環境が厳しすぎるからなのかがわからない。

20231227

自分の価値と自己肯定感の源泉について。

 

死にたいと考えたことのある人間は,どれほど居るのであろうか。統計を見たわけでないので,この話題について語れるわけではないが,自身がそのうちの一人であるのは確かである。不幸にも上記の考えがいきすぎて死に至る者もいるが,自分はのうのうとここまで生き延びている。

なぜ生きているのかといわれれば,自殺を実行してしまうような衝動に未だ襲われていないから,といえる。自分は,よく「自分には生きている価値はない」と思いがちであるが,これが真実(であると本気で思い込んでいる)ならば,自殺をするに至るであろう。(逆が成り立つわけではないことに注意されたい。)したがって,自殺を実行しないうちは「自分は生きているに値する存在だ」という思想が頭の片隅に,それを意識しているかしていないかにかかわらず,内在している。然らばここでいう「自分の価値」とは何であるかという疑問が浮かぶ。

 

一.[一般に,人は,生きようとする間は価値がある(と定義できる)]

人は,善と悪に大別できる。

抑も価値,善悪の判断基準はさまざまであるが,ここでは,価値は経済的価値,簡便には金銭を,善悪は一般的に法規範を考えることとする。

善と悪は,両者ともに,他者に対して雇用を生み出し,その雇用には金銭を発生させる。すなわち(生きようとする意思のある)人は価値を発生させる存在であり,いい換えれば,人は少なくとも最低限は価値がある存在であるといえる。法規範のいう善は社会全体の価値の和を増大させうるし,悪は社会全体の和を零に(あるいは負に)しうるが,どこかで正の価値が発生していることは,ほとんど確実であるといえる。また,今まさに死のうとしている人にすらも,価値はある。この思考は社会通念上あまりよろしくないであろうが,実際に死んだとして,そのご遺体の片付けの際にも,普通は雇用が発生する。死後は,その人の価値はほぼ零であるといえるであろう。(遺骨や遺体の保存に関しては考慮しない。)

人は生きるためには食事が必要不可欠である。食事をしなければ人は死ぬ。食事のための食を用意するまでに,何重にも雇用が発生する。生を継続しようとするには食を得る必要があり,ゆえに,ある人が生きる意思をもっているうちは,その人に価値があるといえる。また,食事がままならない状態になろうとも,生きようとする人には,入院などを通じて医療分野に雇用を発生させうる。よって,一般的に,人が生きる意志を手放さない限りは,その人には価値があるといえるであろう。

 

ニ.[自分には価値がある]

何を当たり前なことを,と思われるだろうが,事実この考えに至らない時期があったため,(今もなお若干そうであるため)考えてみる。

「自分には生きている価値がない」という考えに基づく希死念慮は,ほとんど消極的なものであるといえる。この考えの上での価値は,(自身が想像する)他者の判断によるものである。自分に価値がないといいながらも生きようとはしているのだから,自殺の実行には至らないのである。ある思慮から行動に移すか移さないかの二択をとるとき,移さないことを選んだならば,その思慮は消極的なものである。いい換えれば,切実に死にたいとは思っていても,死ぬのが漠然と怖い,痛そうで嫌だ,などの雑念がよぎり自殺を実行しないのであれば,消極的思念である。逆に,恐怖を振り切ってまでも死に至る道を選んだならば,積極的希死念慮であるといえるであろう。自身の無価値を嘆いた究極形も,一つの積極的希死念慮である。

一.により,上で述べたような消極的希死念慮を抱いているうちは,自分に価値があると考えてもよいであろう。

 

三.[自分の価値は,自分で決定できる]

これも自明である。しかしニ.に挙げた消極的希死念慮が強くなるにつれ,死に至る確率が高くなる。この消極的希死念慮を一定程度に抑えるためには,自分の価値を自分で決定する必要がある。さらに一般的にいえば,希死念慮の度合いは自己決定によるものである。

話の流れとして,三.からニ.の方がセラピーとしては効果的であろうが,(実際元の考察でもこの流れで考えついたが)消極的/積極的希死念慮の説明のために,先に二.を述べた。

人が考える自分の価値は,その人が考える乗算によって定められるであろう。たとえば,ある人が[仕事ができる]×[出社ができる]×[人当たりがよい]×[メンタルを崩すことがほぼない]という乗算により,自分の価値を構成できると考えたとする。この場合,この人は,自己肯定感バリバリ,かつ仕事もこなせる,かつ体調不良もほとんど起こさず起きてもすぐに回復できるような,(よい意味で)無敵の人である。羨ましい限りである。

要素を少し変えてみて,[仕事ができる]×[出社ができる]×[人当たりがよい]×[メンタルを崩しがち]であればどうなるか。最後の一つの違いだけで,人は自分の価値を大きく下げうる。あまつさえ,[出社ができる]要素にも負の影響を及ぼしてしまう可能性も否定はできない。すなわち,乗算式が[仕事ができる]×[出社ができない]×[人当たりがよい]×[メンタルを崩しがち]になるおそれがある,ということである。この状況は,芋づる式に[仕事ができない]×[出社ができない]×[人当たりが悪い]×[メンタルを崩しがち]に変化しうる。非常におそろしい。

上記の二つの例は,要素を[仕事の出来],[出社率],[他者への態度],[メンタルの強さ]と(主観的な)数値として考えることができる。また,[メンタルの強さ]により他の三要素が変化するのであれば,これら三要素は[メンタルの強さ]を独立変数とする従属変数であるといえる。したがって,人が考える自分の価値は[メンタルの強さ]によってのみ決定する。

メンタルの強さは,自己肯定感ともいい換えられるであろう。この値を決定するにあたり,さらに複数の独立変数が考えられる。また,このときの独立変数は自分で自由に選ぶことができる。

人々は,必ずといってよいほど,何らかの共同体に属している。その共同体において自己肯定感を高くするには,乗算式の構成要素を自らが考え,乗算式を自らで立式する必要があるであろう。すなわち,自分が都合のよいように考える必要がある,ということである。しつこく「自分の」価値と述べていたのは,このことに起因する。

しかし,解釈を捻じ曲げて,傍若無人も甚だしいようであれば,属している共同体から追放される,あるいは自ら脱出しなければならない状況に陥るおそれがある。それは村八分であったり,SNSでの炎上であったり,極端な場合は死刑であったりする。

ただ,追放や脱出を過剰におそれ,乗算式を立式するにあたり,低い数値の構成要素ばかり選んだり,または構成要素の値を低く見積もったりして,自分の価値を過小評価する,などといったことも,解釈を捻じ曲げている一例である。この過小評価が強くなれば消極的希死念慮になり,それがさらに強くなると積極的希死念慮に変貌し,自死に至る。

 

以上の議論の結論:

自己肯定感を上げるためには,所属する共同体において自分にできることを,可能な限り自分が満足するまでなす必要がある。それが物理的にも精神的にも不可能な状況であるとき,死にたくなければ,別の共同体に移るべきである。

 

こんな(世間一般において)当然とされるようなことを長ったらしくだらだら考えるのは,長所にも短所にもなりうる。長所として解釈すれば,少しは幸せになれるのかもしれない。

上記のような考え方が絶対というわけではないし,自分自身この先の人生を通じて考え方が変わることも否めないが,自己肯定感が低いという人が前向きになるための一助になれば,記事を書いた甲斐があるというものである。

20231209

思い立ったが吉日。

担当アイドルの櫻井桃華の初登場が12年前の今日ということで,ゲーム理論の本を買うついでに北野坂を”自転車で”上り,オランダ館まで足を運んだ。直前の坂は傾斜がきつすぎて,ペダルを漕ぐことすらままならなかったが……

目的はもちろん桃華をイメージした香水である。神戸をロケーションとしたカードはいくつかあるが,「神戸のお嬢サマ」らしさが(個人的に)最も際立ち,撮影場所が北野異人館通りであることも勘案して,爽春ノスタルジアをイメージした。

調合師の方にいただいたムエットの香りを嗅いだ瞬間,モタク特有のニチャつきが発生しかけたけれども,何とか耐えた(はず)。

付けた直後はフローラルで気品に満ちているものの,徐々に年相応のかわいらしさを思わせるような甘い香りに変わっていく。桃華の実在を感じて泣きそうになる。

時空が現実のものであれば,彼女は24歳になる。若干自分よりお姉さん。

年下の二次元,年上の三次元にかかわらず,「櫻井桃華」がこの世界にいるならば,確実に惚れていた。というより,現に最も惚れている人物であるのは間違いない。彼女に出会わせてくれたすべての因果に感謝を。

デビュー12周年おめでとう。

 

余談だが,昨日の問題は桃華の声を聴けば良いということに気付いてしまった。安眠は漏れのものだ。